長崎県長崎市にある原爆の脅威と平和を示す『平和記念像』を観に行ってみた
毎年8月9日に長崎市で執り行われている「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」がニュースで流れますが、その式典が行われている「平和記念像」のある『平和記念公園』にやってきました。
この公園は、原爆投下中心地に造られた「祈りのゾーン」、長崎原爆資料館のある「学びのゾーン」、そして今回ご案内する平和記念像のある「願いのゾーン」の3つから構成されております。
本日、この公園をご案内するにあたり、アメリカの戦争犯罪によってもたらされた無辜の人々の無念の声と共にご案内したいと思います。
▼松山橋
平和記念公園へと徒歩で向かう道中、何気なく通ったこの「松山橋」のたもとには、原子爆弾による惨状が記載された銘板が置かれておりました。
「昭和二十年(1945)8月9日11時2分、松山町の上空500mで炸裂した一発の原子爆弾は、強烈な爆風と熱線により地上のものを一瞬にして破壊し焼き尽くした。
この松山橋は昭和四年に架設され、爆心地から北東約120mの位置にあったが、奇跡的にその姿をとどめた。
当時、松山町の人口は1860人余りであったが、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き、全員が即死した。
この話の下を流れる川には水を求めてたどり着き、そこで力尽きて息絶えたおびただしい数の遺体で埋まっていた。
※現在の松山橋は、昭和二十八年に新しく架けられたものです。」
今では、町中にある普通の橋ですが、僅か70年前にはアメリカが民間人の頭上に無差別に落とした一つの爆弾で地獄となった場所である事を知りました。
▼平和記念公園
「松山橋」を観て、なぜ日本人は・・・と考え事をしていると『平和記念公園』前に到着しました。
広島・長崎への原爆投下、日本の降伏から3年後の1948年より毎年行われる「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の会場となる『平和記念公園』は小高い丘の広場に造られております。
戦後、約80年を経て戦争を経験した方々も高齢となっておりますが、この公園にはエレベーター等も完備され老若男女問わず訪れる事が出来るようなっております。
通常であれば、ここからエレベーターに乗り公園内に入園するのですが、エレベーター右手を見てみます。
▼松山町防空壕群
すると、そこには戦時中に平和公園周の崖に造られた「防空壕」があります。
この平和公園周辺の崖にはは数多くの防空壕が作られたと云われ、今でも見る事ができるものが幾つか存在しておりました。
この防空壕群に設置されていた看板には、
~昭和二十年(1945)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾の炸裂により、町内に居た者は、この周辺の防空壕に避難していた数名と街を出て職場に勤務していた人、たまたま所用で街を離れた人々をに除き全員が死亡しました。
爆心地から近い近いこれらの防空壕にまつわる被爆状況は、アメリカ軍も調査し、防空壕内部の形状、その中の生存者と死者の位置を記録しています。~
この記録を観てみると
”事情聴取者とそれ以外の多数の人が中に入って働いていた防空壕は、高さが6~7.5mある崖の北側に位置し、入口が推定爆心地から180mはなれた所にあった。
この防空壕には、材料が確保されているにも関わらず入口を保護する防壁壁が無かった。
事情聴取者は爆発が起こった時に入口に背中を向けて立っていた。
彼女は爆風で倒され、足の裏側と右腕の上部に火傷を負った。
火傷の傷跡は褐色のしみの様相を呈していた。
これは、通常は、高温の火花を浴びた火傷で出来るものである。
事情聴取者は、濃い緑色をした木綿のもんぺを履いてそれをひざ上までたくし上げ、袖なしのシャツを着ていた。
着衣で覆われていた胴体にはまったく火傷は無かった。
事情聴取者は、火傷以外は何も悪い所がないと述べた。
T字型をした横穴内の3.6mある腕の部分で働いていた人は、怪我も後遺症もなかった。
”X”の位置で働いていた女性は入口を向いていたために顔、腕、胸の上部に火傷を負ったが、回復して後遺症は全く無かった。
防空壕の外にいた人は全員が火傷で死亡した。
遺体を調べたところ、着衣が完全に焼け、肉が何か所も黒焦げになって焼き尽くされており、舌が飛び出し、眼球と歯は大きな圧力が加えられたかのように押し潰されていた。”
▼平和の泉
防空壕群の見学の後、平和記念公園のエレベーターに乗り入園します。
入園後、公園中央を目指し歩いていると 『平和の泉』なる人工池がありました。
知らずに見るとただの噴水ですが、ここにある石碑を読むと涙が出そうになりました。
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
-あの日のある少女の手記から-
気づけば街は破壊され、自身は大火傷を負い、助けもこない中のどの渇きは限界を超える。
この文章だけで、凄惨な状況を物語ります。
そして、噴水をこえた所で、本日のメイン「平和記念像」が見えてきました。
このまま一直線に像まで行きたいところですが、ごらんの写真の左右に移るモニュメント群が気になったので観てます。
このモニュメント群の何が気になったかと言うと、ソヴィエト社会主義共和国連邦、ドイツ民主共和国、チェコスロバキア社会主義共和国といった、今は無き共産主義国が寄贈国であるという非常に政治色の強いものである点です。
また、モニュメント群の中で、ひときわ目を惹くのは、一般市民、動員学生、女子挺身隊、徴用工を慰霊する「原爆殉難者之碑」です。
他の、政治色の強いモニュメントと違い、ちゃんと慰霊を目的に造られたのは、この中ではこの慰霊碑だけでしょうか。
▼長崎刑務所浦上刑務支所跡
慰霊碑へ黙祷を捧げ、このまま一直線に「平和記念像」へと思っておりましたが、その途上写真の『長崎刑務所浦上刑務支所跡』が見えました。
これは、平成に入り平和公園の造成の一環として地下駐車場建設工事を行っている際に、敷地内より赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝、死刑場の地下部分の遺構が発見されたものです。
平和記念公園が刑務所跡地に造られていた事に興味を惹かれましたが、更に死刑場もあった事に驚かされました。
ちなにみ、この刑務所は爆心地から最短100メートルに位置していたため、甚大な被害を受けた、庁舎と周囲を取り囲んでいた塀が崩壊してしまった跡となります。
被爆時、刑務所内には職員・関係者の53名と収監されていた、受刑者達81人の全員が亡くなられたとの事です。
▼平和記念像
ようやく、本日のメイン『平和記念像』の前にやってきました。
像の前には献花台が設けられ、式典の無い本日でも厳かな雰囲気がありました。
この像の天空を指す右手をみて、平和祈念像が爆心地であるとの誤解される方もおられますが、爆心地は平和記念公園の「祈りのゾーン」です。
右手が空を指している理由は「原爆の脅威(長崎の過去)」という意味を持たされており、水平にのばした左手は「平和(長崎の未来)」を意味しております。
そして、よく見ないと分からないですが、軽く閉じた瞼は戦争犠牲者の冥福を祈っております。
また、「なぜ、平和記念像が原爆を落とした西洋人やねん!」とツッコミたくなりましたので、調べてみると平和祈念像のモデルは無いが一説には戦後日本で活躍したプロレスラーの力道山とも云われております。(それにしても、顔はアジア系ではありませんよね。)
平和記念像の横に置かれる「折鶴の塔」には、全国から送られた数多くの千羽鶴が掛けられておりました。
ここで平和を祈念し、数多くの犠牲者の冥福を祈り黙祷を捧げ公園を後にしました。
公園を出ると『被爆者の店』なるインパクトのあるお土産物屋さんがありました。
中は長崎のお土産や軽食を頂く事が出来るスペースになっております。
▼さいごに
以上で、長崎県長崎市の平和公園内にある原爆の脅威と平和を示す平和記念像のご案内となります。
これから、この公園から見えた「浦上天主堂」を目指し、向かう事にしました。
未だに力にものを言わせて世界に不幸を撒くアメリカという国への憎悪がとまらなくなりました。
僕は、原爆というものの怖さを分かっているつもりでしたが、実際の被爆地を観てみると僕の想像よりももっともっとも生々しく、多くの人々を苦しめたものだと知りました。
皆様も、学びに訪れてみては如何でしょうか。
ご精読ありがとうございました。
▼アクセス
住所:〒852-8118 長崎県長崎市松山町9
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